『コインロッカーベイビーズ』考

ちょいと未消化なので、もう少し書きます。

なぜ、ガラゲーやメールなしの設定じゃないといけないと思うのか、それは、イージーに連絡がつかない故に生まれる狂気と孤独が『コインロッカーベイビーズ』には、あるからです。

スマホが、ぶっ壊した人とのつながり。いまの時代は、つながっているようで、断絶があります。

原作が発表されたころ、携帯電話は高価で、まだ一部の人しか持ってませんでした。タイミングとしては、ポケベルがあったか、なかったか、くらい。
人との距離、つきあい方が、まるでいまと違います。

いまは、離れているのが前提で、みんな、「もしかしたら、あの人も病んでいるかもね」、「闇を抱えているかもね」、「人は簡単に離れていくよね」ですが、あのころは、つながっているのが前提で、「もしかしたら、離れてしまわない?」 、「そばにいる?」 と不安がわきあがると、苦しくなっていた気がします。だから、知り合いが、自分の一部が、いつのまにか狂ってしまうと、一連托生で自分も堕ちてしまうのです。

今は、切りますもんね。ブロックをかけます。

過去にはスマホがあったら、起こらない悲劇があり、現在にはスマホがあるから、始まる前に終わってしまう喜劇があるのです。

このあたり、明確にしないと、作品テーマがブレます。携帯がある世界、メールがある世界の孤独や闇は、もう少し、素早く進展します。勝手に転がり堕ちていきます。昭和、あの作品が生まれた時代背景は、身内が堕ちそうになったら、止めますし、隠します。このニュアンスの違いで、ドラマの方向性は、絶望的に変わってしまいます。

イージーに、今に寄せてはいけない。

寄せるなら、作品構成、時間の流れ方、感じ方も加工しなければ、キャラに違和感が残ります。

うまくいえないんだけど、「あいつ、おかしいよ」、「狂ってやがる」、「あぶねー」「やばいよね」は、平成の感覚だからね!ってこと。

昭和は、もっと手探りで、私たちは、人はちゃんと機能するものだと信じていました。だから、調子っぱずれの人がいても、排斥しなかった、隔離するのは、よほどやらかしたときだけ。みんな、少しずつ狂っていて、狂いや軋みが日常に紛れ込んでいました。

携帯、パソコンが、変えたのよ、意識を。つながりを。

いまは、遠慮する時代、忖度する時代、インスタ映えを狙う時代、最初からみんな、孤独。

孤独になることを恐れた昭和の空気、そこ、削るなら、作品の展開も変わるから!

イージーな現代寄せは、違うなあと思った次第。電話にコードつけたくなかったんでしょうが、昔は、みんなつながれていたんだよね。簡単には、切れなかったんだよね。

意外に大事、変えちゃいけない要素、無視しちゃいけない要素、あるんだよね。しかし、あの時代を知らないと、わかんないよね~という思いが、「蜷川さんの演出ならばなー」につながるのございます。ハイ。

 

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