嘘の安心

きょう、嘘の食欲があるなら、嘘の安心もあるとひらめきました。

嘘の安心、いかにも、ありそうでしょ?
安心したいから、極めて疑わしいのに、ダメだとわかっているのに、信じてしまう感じでしょうか?

 

私は、不安いっぱいの幼少期を過ごしまして。安心を正しく理解するまで、時間がかかりました。その背景には、父の不安定さがありまして。

 

で、父について、少し思いを馳せました。たぶん、生まれて初めて。そして、父は第二次世界大戦開戦の年生まれだと気づきました。正直、このことについて、今まで一度も考えたことがありませんでした。

 

祖父は、戦死しています。
父の半生は、生後半年で日本は戦争に突入、物心つくかつかないかで、父親は戦死、その後、戦後を生き抜き、年老いてからちょいと珍しい白血病と共存しています。

 

父が我が子に安心を与えられなかったのも、無理のないことかもしれません。
我が父は、未だに安定感がありません。
孫をかわいがるのも、気まぐれで、ムラがあります。構いたくて仕方なくて、呼びつけるくせに、すぐに飽きてしまいます。根底に、揺らぎがあるのでしょう。

 

考えてみれば、同世代の親を持つ人はみな、似たりよったりの背景を背負いますよね。
それぞれ、個性で差が出るとしても、戦争の破壊力を前に、無傷でいられる人がいるかどうか。うちの父は極端にしても、それでも、無理もなかった気がします。

 

嘘の安心は、意外に根深いかもしれません。親の影響、祖父母の影響。手繰って行けば、思いがけない場所に着地するかもしれませんね。

 

 

 

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2013年12月17日 | カテゴリー : 日々のこと | 投稿者 : 章月綾乃