ソール・ライター展

ソール・ライター展

知っていましたが、スルーしていた企画展です。

森冬生先生が行くとおっしゃるので、調べてみたら、かっこよかった!ので、なんとか組み込みました。

で、実際に行ってみたら、かっこいいではなく、かわいかったです。

心に残ったのは、靴屋の靴、パリのウェイター、マネキン、雪や雨、バーバラ。猫と犬、事故も。事故、うかつにも笑っちゃっいました。不謹慎だけど。本当に事故だったから。

バーバラは、モデルのひとりで、だらしなく寝ているのとセクシーに誘うのと、アンニュイにたそがれるのと3~4ショットあり、みんな別人みたいに見えました。同じモデルのイネスやフェイには、驚きがないの。バーバラだけ、変幻します。

いい女だなあと思った次第。

ボナール好きがわかる構図でした。むーん、三菱1号のナビ展、行くべきだったか?

グラビアを捨て、撮り始めたスケッチ風の写真は今見ると、別になんてことなく、ただ懐かしい感じですが、これは、ソール・ライターが作った世界、文化なのかと思うと、素直にすごいなあと感服しました。

風景の切り取り、ぼかし、映り込み、プロが狙った日常のヒトコマ。いまは、当たり前にある切り口ですよね。

色彩だけの絵は、すごく好きでした。わかるなあ、私も、世界を似たように感じます。光とぼんやりとした輪郭。ディテールではなく、色で捉えています。

かっこいいものを見にいったつもりなのに、素直で汚れがなく、すっかりなごみました。

「葬式みたいな結婚式」、幸せになるといいなと思いました。

森おやびん、よいきっかけをありがとうございます!

ちなみに、きょうが最終日です。bunkamura、ザミュージアム。1400円。

2017年6月25日 | カテゴリー : 日常 | タグ : | 投稿者 : 章月綾乃

足元注意の日

章月綾乃

本日の私。

魔女さまたちのイベントをお手伝いすべく、手持ちの中の魔女っぽい服を出したら、靴が合いませんでした。仕方なく、古い靴を出して出掛けたところ~。

靴

なんと、両足、底が取れました!

仕方なくコンビニで接着剤を買い、直そうとしたら~。

靴底

馴染みの猫に邪魔をされ、うまく直せませんでした。諦めて、旦那を呼び寄せ、違う靴を持ってきてもらい、履き替えました。

すっかり時間がなくなりましたが、魔女さまたちのイベントの前にどうしても寄りたい場所があり、神泉駅に向かいました。が、ホームに降りた途端、いきなり滑りました。

え? なんでこんなに滑るわけ?

ありえない滑り方だったので、周りを見てみたら!

若者が吐いて転がってました。なんと、他人の吐瀉物に滑って転びました!

服は汚れるし、体は痛いし、時間はないし!

トイレでざっと汚れを落とし、松濤美術館へ。それから、ちえの樹さんに向かいました。

さあ、最初の写真に戻ってください。これがゲロまみれの満面の笑顔です。

体中、痛いんですよ。やれやれですよ。しかし、ハロウィンっぽいっちゃ、この上なく!

帰宅して、一番に服を丸洗いしましたよ。

イベントは、楽しかったです。ご来場くださったみなさま、ありがとうございました。しかし、まさか私が転倒後とは、気づくまい(笑)。みなさまの厄、身を持って福に転じておきました! 押忍!

やらかしてしまったとき。

「やっちゃった!」
「やらかしちゃった」

トラブルを起こす、ミスをする……、場合によっては罪を犯すも含めて、反省が伴う行動全般の話です。

これ、仕方ないって思うんですよね。

そりゃ、やらずに済ませられるならやらないほうがいいし、防げるなら防ぎたいですけれど、失敗にも理由があり、必然があるのだと感じます。

世間を騒がすようなスキャンダル、非常識な行動、犯罪も、私たちに注意を促し、意識改革を喚起させる役割があるのだと思うのです。

大事なのは、そこから進化することです。
次はやらない。
お詫びや償いは、また、別の次元の話で。

間違いは、正すところまでがワンセットでしょう。

うまく言えないのですが、間違いは個人の価値を下げるものじゃないと思うのです。
間違うことも含めて、プログラミングされているんじゃないでしょうかね?
間違いの先の成長に必要がだから、間違うというか。

精神疾患を疑うような重罪は、もしかしたら、時代が要請する犠牲者かもしれないと
感じます。世の中の意識を変えるために、私たちをよりよい方向に導くために、
重罪を犯す役割を担ってきたというか。
重罪を肯定しているんじゃないですよ? いや、肯定派なのかも?

罪を憎んで人を憎まず、というか。

もうひとつ、”懲りない”もありますよね。ダメッてわかっているのに、止まれない。
表面化している問題の陰に、何か理由があって、その理由を解決しないと永遠に同じ場所から動けない、繰り返していくのでしょう。

最近の世の中って間違いを犯さない様に予防する動きが強すぎて、 本当に息苦しいです。
強い薬で病気をなくそうとして、それはなくなるんだけど、より強い抗体を持った
ウィルスが生まれてしまう……みたいなスパイラルに陥っている気がしてなりません。

転んでもいいじゃないですか。起き上がる力がつくし、転ばない技術もそのうち、
身に付きます。もし、早い段階で、それが大怪我につながってしまったら、そりゃ悔やむかもしれませんが、怪我をしたことで弱者の気持ちがわかったり、通常のルートを歩けないことで、その人にしか見つけられない道が見つかるかもしれません。

みんなと同じがいい。せめて人並みには……。
そんな気持ちが異端を排除し、不幸を回避するために、保守に走らせます。
でも、不幸は、本当に不幸なのかしら?

やらかしてしまった自分も大事にしましょうよ。
やらかしてもいいんですよ。
もし、それで、見切られてしまったら、相手の器も、そこまでしかなかったってことです。
誰もがやってしまうこと、たまたま、やらずに済んだだけで、やらかす可能性はゼロではなくて、自分もやっちゃうかもしれないのに、「バカだね。なんでやったんだろうねえ」みたいな責め方をする人がちょっと多すぎるし、同時に、「なんでやっちゃんだろう。自分はもうダメだ」も増えた気がします。

失敗も含めて、人生。
そこから変われるから、面白いのに。

経験は、財産です。反省は、宝物です。

ふいに浮かんできました。
今はもう離れてしまった人から「あなたは内省が足らない」って言われたことがありました。

私、個人的な内省はしていないけれど、運命全般についての考察はしています。
それって、本質的に同じことだと思うんですよねー。
運命、幸不幸を個人的なものとして受け取らない習慣がついています。彼女の言う内省、自己へのこだわりを強めるだけって気がしますしね。

内省が足らないっていわれたときは、友人だと思っていた出版関係者に盗作された時期でした。
私は、その人のことを好きだったので、まさか自分が書いた原稿がその人の名前で出版されてしまうことになるとは、夢にも思わず、「いいなあ、本を出せるんですか」って無邪気にうらやましがっていたのです。出版された本を見て、「え、これ、私と友人が書いた原稿じゃない!」って気づいて、抗議して……、ボロボロだったときに言われました。

「内省が足らない」

内省じゃないだろ? そこ。内省して、どうすんの?

必要なのは、法的な処置とか、精神的なダメージへのケアでしょ?
きっと、ショックを受けている私が、面倒くさかったんでしょうねえ。
まあ、私も人を見る目がなかったですね。

盗作した相手については、もう別にどうでもいいのです。
倫理の欠落が明確で、個人的には、別のお仕事をなされば?ですけれど、それは、余計なお世話、その人の問題です。

そういうことをする人もいるんだなあ、どういう思考回路だと、それがOKになるのかなあ?が気になるところですが、それもまあ、どうでもいいです。

最近、また名前を見る機会があったので、「ああ、反省してないなあ。何も変わってないんだな」とわかったし、もちろん、取引先に「こんなことがあって」的に言うこともできますけれど、言いませんよー。
私、意地悪ですから。放っておけば、いずれ、もっとひどいことをして、ふさわしい制裁を受けるでしょうから。その人を告発するほど、優しく親切ではないのです。

たいてい反省が生まれるまで止まれないですよねー。失敗して、破滅して、やっとわかるわけですよ。思い知るというか。

どこで過ちに気づくか、ですよね。今世で失敗に気づかなければ、来世に持ち越し。
そしたら、相当キツい展開が待っているわけで。

「やっちゃった」とか、「やらかした」は、案外、神様の贈り物かもしれません。
早く気づけば、早く次にいけますから。

失敗は、私たちの一部。
反省と改善があれば、それは、糧になります。

たぶん、人生をやり直していいよって言われても、私は「助けを求めている人に対し、内省が足らないと言い出す人」と仲良くなるし、「友人のふりをして、盗作しちゃう人」とも親しくつきあうでしょう。悲しさや苦しさも、私の一部です。好きだったよ、あなたたちのこと。