感謝の念がわきません。
心の奥底がずっと冷えていて、自分でも恐ろしいと感じます。
やっと松飾が取れたので、お話ができます。
年末、いよいよ、今から年賀状を!という段になって、父の容体が悪化しました。
「持って年内、長くて10日」
そういう話でした。もう年賀状なんて出せません。
また、その持って10日の10日目は私の誕生日でした。
世間でよく聞きますよね。身内の命日が誕生日って。
だから、そのパターンかもしれないと思っておりました。
ところが、しぶとい、しぶとい。なかなか、その“時”は来ません。
無駄に丈夫なんですよ。うちの父ってば。
毎日とはいかず、2日に1.5回くらいのペースで病院へ行っているのですが、
ただ、顔を出しているだけ、少し話をするだけなのに、生気を全部持っていかれます。
恐ろしいです。どれほど、消耗する場なのでしょう。
そこで、働いている看護士さんたちには、本当に頭が下がります。
頑丈で、頑迷な父なので、酸素補給のコードや点滴がうざったいらしく、力づくで外してしまいます。その結果、いろいろ無残な様子になるわけですが、健気な看護士さんは、「私たちは構わないけれど、心配だから」っておっしゃるのです。
「本当にすみません。でも、仮に何があっても、これは自業自得ですから」と頭を下げたところ、顔をまじまじとのぞきこまれ、驚いたように笑われてしまいました。いや、ホント、ご迷惑をおかけします。
たまに目覚める父が「オレはもうダメだ」と騒ぐので、「何をおっしゃいますか。憎まれっ子世にはばかると申しますよ。そう簡単にはいかないでしょう」と言ってみたら、「何を言われているのかわからないけれど」ととぼけます。まったく、どこまでも自分にだけ都合のいい親父です。三つ子の魂百までというやつです。
看病番長は母でして、父も基本的に、母しか求めておりません。
「アレはどこにいった?」
「ちょっと外してるだけ。すぐに戻ってくるよ」
「まだ、戻って来ないのか」
はいはい、呼んできますよ。お母さん、お父さんがうるさいよー。
また、この母が妙にドライなんですね。
妙なところで、突き放すわけ。
「もう帰るわよ」
えええ? この状態で? 大変な放置プレイです。
「だって、洗濯物を取り込まないと」
なんという現実主義者でしょう!!!
ああ、私は、このドライさに育てられたのだと、確信しました。
子供のころ、本当にさびしかったよなあ。
これもまた、三つ子の魂シリーズですが。
余談ですが、私は小さい子供に結構モテます。
それは、自分の中にまだ、小さい子供がいるせいだと思っています。子供と接するときに、大人の視点じゃないんですよね。子供の味方なのです。どこまでも。
適当にあしらわれると、子供はわかりますから。そういうのは、ダメだと思っています。
子供時代の体験が、私を子供の味方な大人に変えたようです。
話を戻しましょう。
年が明けてからは、ドライな母も、さすがに気持ちは残るらしく、「眠れない」、「胸騒ぎがする」とぐずぐず言うようになりました。見かねて、「もう泊まれば?」と提案したら、「そうね、そうする」で、夜型の見舞いになりました。簡易ベッドを入れてもらって、夜はそばにいる……、これは、わりとよかったんじゃないかと思うのです。
もう体という器は限界なのに、精神だけはギラギラしていて大変な騒ぎですよ。
冬休みを丸々持っていかれ、さらに、「持って10日」は、どんどん更新していきます。
なら、年賀状出せたじゃないかー!!!
というのが、目下のジリジリでございます。目上の方からもいただいたりしていて、生きた心地が致しません。この辺、しきたり義理人情の山羊座ですね。
本当に、欠礼申し訳ございません。そのうち、言い訳ハガキを出します。いらないか?
以上が、このところの「なんだかよくわからないけれど、章月さん、何か心境の変化があったのかしら?」のこちらの日記の裏事情でございました。やっと、書けて、すっきりしました。
やりたい放題の父なのに、最期まで病院にいられるとか、ドライだけど、見捨てない母がいるとか、みんなが楽しみにしている冬休みを丸々潰して一族を巻き込むとか、人の一生としては、非常に恵まれた終わり方ではあるのですが、それでも、こう思います。
これ、重労働ですね。負担が大きすぎるでしょ!
数年に渡る治療生活は別として、うちのケースは、たいしたことがなくて、今、大変なのは看護師さんなんですけれど。
日本全国あちこちで、似たような状況で、いつともわからない“その時”を待っている方はたくさんいらっしゃるんですよね。愛情深く、辛抱強く、忍耐強く。
いろいろありますが、たとえば、的確に患者の違和感をなくすように体を動かせる機械とか、様々な煩悩を満たすバーチャル食事、バーチャル旅行、バーチャル社交とか、なんかそっち方面で、うまくフォローは出来ないのでしょうか?
介護の果ての殺人、介護の延長の暴力、あってはならないけれど、無理もないと思います。だって、際限ないですもの。寝ているだけの人から出てくるのは、叶えられない要求ばかりです。当たり前が出来なくて、普通が恋しくて、身近な人に訴え続けるんですよね。果てしないし、出口がありません。
家庭という小宇宙の中で、介護がまんなかに来たとき、どれほどの犠牲が払われているのか!!!
これは、本当に深刻な問題です。
なんか「お父さん、ありがとう」とか、そっちにはいかないのですよ。
きっとこれは、「洗濯物が取り込むから、帰る」のドライさの産物ですね。間違いない!
いろいろ思いは乱れつつ、考えさせられることもありつつ、誰もが通る道を、今、テクテク歩いております。しかし、ホント、老いていく社会のケア、真剣にやらないとまずいですよね。
あ、私は大丈夫です。テクテク、頑張りまーす!