人は、無意識に選別をしています。
そして、人は、気づかないところで、振り分けられていくのだと感じるのです。
選択権はあるようで、実はないのかもしれません。
選んでいるつもりが選ばされている、あるいは、それしか選べないようになっているなど。
でも、それは、無意識に委ねすぎているからかもしれません。
いろいろな時期があると思うのです。
意識的に動いて、成功するとき。
無意識に動いて、うまくいくとき。
逆に、意識的に動いて、裏目に出てしまう、
無意識に火中に飛び込んでしまうなどなど。
うまくいかないときは、大ざっぱにいえば、
「やり過ぎている」か、「やらなすぎたか」のどちらかですから、
つらくても切り替えていくことが大事じゃないでしょうか。
「強がっちゃったから、もう弱音は吐けない」とか、
「任せるって言っちゃったから、いまさらひっこみがつかない」とか。
くだらないし、つまんないなーって感じます。
誰しもメンツがあるし、流れもあるし、人の目も気になります。
でも、「出来ると思ったけど、ダメだった。ごめん、手伝って」とか、
「やっぱり、そこは自分でやってみる」とか、もう相手にどう思われようと、
イメージ総崩れ、評判ガタ落ちだろうと、変えた方がいいと思ったら、
変えちゃったほうがカッコイイと私は思うのです。
だって、意地を通したって、もうそれはバッドエンドのフラグが立っているなら、
みきわめる必要はあるのでしょうか?
「あー、やっぱりダメになっちゃった」的に。
性格が運命パターンを作っていきますから、自分らしさとか、こだわりを
ぶち壊せばいいわけですよ。
あなたを不幸にする自分らしさなんて、本当にいります?
あなたを苦しめるこだわり、本当にこだわるべきものでしょうか?
理想や美学のために、滅びを選ぶのは、カッコイイですよね。
そうは思うけれど、もうひとつ、人生に対する傲慢って気もするんですよね。
理想のために、生きて死ぬ。理想以外の部分は、捨ててますし。
昔の映画や小説のようなかっこよさが、今の時代持ちにくいのは、
価値観が多様化して、視点が複雑になったからだと思うのです。
それなのに、前時代的な生き方のまま、レトロなこだわりに捉われていいのかなーって
思ったりします。
ブレても、無様でもいいじゃん。
性格が運命を作るなら、ツイていないときは、キャラを変えちゃえばいいんですよ。
とりあえず、生き延びているだけで、めっちゃがんばっていますよ。今の時代の私たち。
いつか、絶対に譲れないラインが見えてくるはずで。
その日までは、もっと柔軟に、ちゃらぽらとしなやかにしたたかに生きていけばいいんじゃないかなーって
なぜか今宵は思うのでした。