哲学的な朝

御嶽山の噴火、今朝知ってびっくりしました。
被害が最小限に納まりますように。また、少しでも早く、避難が完了しますように。

◇◆◇◆◇

早朝から、肉を解体しました。
もっとも、まな板の上で終わる量でございます。
コストコで買った肩ロースのかたまり肉を冷凍しやすいように解体したのです。

で、これまで体験したことがない感覚に襲われました。
「この牛、殺されるのが怖かったんだろうな」と。

たまに聞きますよね。
牛とか大きい動物の肉には、悲しみがこもっているとか。
人間よりも大きい動物は、食べないほうがいいとか。

私が扱えるのは、コストコのかたまり肉くらいなものですが、
実感として、そういう感覚が襲ってきたのは初めてでした。
でも、まあ、生きるためには食べなくてはいけません。
「ごめんね。ありがとう。ちゃんといただくね」的な言葉をかけながら、
かたまり肉と格闘いたしました。

たぶん、いつもよりも脂肪分が多くて、膜のような部分が含まれていたせいだと思います。
包丁、ダメになっちゃうなーとか現実的なことも考えながら、適量に切り分けてラップして
冷凍庫へ。

生きるということは、食べるということで、
こぎれいなスーパーの小分けされた肉からは、こういうこと、全然考えられません。

精肉業者さんは、たいへん。牧場の方もたいへん。
肉屋さんの知り合いはいないなーって思って、違う違う、いたんだと思い出しました。
若くして亡くなった叔父が、お肉屋さんをやっていたはずです。
配達の途中、免許取り立てのトラックにはねられ、亡くなったと聞いています。
「おにいさんが生きていたら、うちももっと違ったのに」
これが、母の繰り言でした。

叔父は、30を前にして亡くなっていて。いとこがいるはずですが、
会ったことはありません。お嫁さんはなけなしの財産らしきものを全部持って
事故のときに身につけていた血まみれの服だけ置いて出て行ったそうです。
「これがあるから、いいでしょう」と。
母の思い出話の中では、完全に悪者ですけれど、きっと何か事情があったのでしょう。

叔父の死からの連想で、27歳で亡くなった旧友についても考えました。
27歳の死、自殺にも見える事故死。
「日曜日に話そうよ」って、先延ばしにしたら、日曜日にかかってきた電話は、
訃報だったという。

あるとき、ある方から「あなたが人を突き放せないのは、お友達の死があるからだね」と
指摘されました。
人は人を救えない。頭ではわかっているけれど、心が納得していないみたいです。

10代、20代のころのことを思うと、混沌としたところに立っていたと感じます。
自分だけじゃなくて、まわりもそうで。みんな、それぞれ苦しくて、逃げ場がなくて。
そこから、20年以上経ちまして、今はどうかといえば、この世の不条理には慣れたというのでしょうか。
もう仕方ないねと麻痺して、開き直って、何が起こっても、「まあ、そういうこともあるよね」的に
受け止められる、いや、流せるようになりました。流しきれなくても、流したフリをするというか。

27で亡くなった友人に、私は胸を張って言えるでしょうか?
「あなた、早すぎたよ」と。

コストコのかたまり肉から、こんなところまで連想が広がるとは!

そうそう、昨日すごくおいしいものを食べたのです。
それは、「麦とろ」。
体が求めていたのでしょうか? ここ数週間で一番心に残る食事となりました。
とんかつ和幸で、150円で普通のご飯を麦とろに変えられるということで、
「じゃあ、麦とろで」ってしたんですけれど。もうとんかつどころの騒ぎじゃないんですよ。
麦とろ、うまー!!!!みたいな感じで。ダンナの分ももらっちゃいました。
かわりにヒレカツを上げました。ヒレカツととろろのトレード、さて、どっちがお得?

きょうは、朝から白菜のクリーム煮ならぬレタスのクリーム煮を作り(白菜がなかった)、
エマダッツィを久しぶりに作り、のんびり一日食べるつもりで、コストコの一口冷凍キッシュを焼いて、
ご飯が炊きあがるまで、適当に買ったサンシャインマスカットをつまみ食いしたら、アタリで
嬉しくなっております。あとで、肉好きの人のために、ステーキも焼くのでしょう。
日曜日らしいと言えば、日曜日らしい朝です。
のんびり久しぶり。思うことはたくさんあっても、まあ、生きていかねばなりませんね。
では、きょうもよい一日を。駄文、長文、おつきあいありがとうございました。

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