『豊穣の海』続き

三島の美学、憂国。

平成が終わる今、これを取り上げる心意気にまず、感服する。

演出は、マックス・ウェブスター。バランス、手際がよい。が、外国人演出家にありがちなのは、舞台は美しく印象的だけど、日本語のニュアンスが死ぬこと。

ヒロインは、華やかに登場。が、口を開いた途端、たどたどしく、落差にくらくらしたし、いろいろ届かなくて苦しかった。一方、私の目当ては、さすがに無謀な挑戦だったのでは?な仕上がり。身体能力高いと、言葉いらないよね。無理もない。

が、ヒロインは、ラストで反転する。観劇きっかけになった彼は、彼にしか出来ない一枚の絵を作る。

これ、どっちかなー?

その人にしか出来ないシーン?

台詞を正しく届ける力?

お二人の台詞回しが気にかかる、耳に障るのは、共演者が上手すぎるせい。プロの中にアマチュアが紛れ込んだような違和感でザラザラする。全体のレベルが高い。あるいは、ハマっているから、稚拙なセリフ回しが足を引っ張り、没頭しきれない。

まー、難関、難役すぎるよね。ストレートプレイをやりつくしても務まるかどうか。台詞に喰われてしまうのも、無理はない。

でも、大人の事情もあるからなーと、呑みこもうとしたとき、いきなり反転したから驚いた。あのザラザラ、不協和音も、全部計算だったんじゃないかと思わせる大反転。狙ってた? 偶然? 計算? 怪我の功名? ねえ、どっち?

だから、Twitterで、夢落ち扱いされていて、ギョッとした。夢落ちかあ? 私は、違うと思うけど?

夢落ちのもう一段深いところに、真意があるような?

とにかく、脚本、演出がよい。ヒロインの落差も、後味がよい。もし、狙っているなら、演出やコーディネーターは、呆れるくらいの鬼才。まー、出番も台詞も多いヒロインを稚拙に仕上げる必要はないから、単に実力不足なんだろうけど、これは、数年後には、バケるかもしれないよね。伸びしろがあるということ。登場シーンのスペシャル感、ラストシーンの温かさは、出そうと思って出せるものじゃない。華、という言葉に置き換えてもいい。

首藤さんは、やっぱりセリフは厳しい。中年期パートだけキャラがブレる、クオリティが落ちる。が、まあ、あれだけ、美しい絵になるなら。んー、でもなー、青年期、老年期の完成度が高い分、台詞でつないで欲しい。台詞、削れない役だしなー。これは、もう何を取るかだなー。中年期、美しく魅せる必然ない気がするしね。

美醜の対比があってこそ、独尊と恋慕の図も成り立つわけだし。美しい一枚の絵、あれ、いるかな? どうかな? いる? 高潔とされる社会的地位を持ちながら、劣情を隠し持つ醜さが、ブレないか?

美化すべきは、紗幕の中。葡萄じゃないよなー。惜しむらくはそこ。美しい一枚の絵だけれど、なんでいれたかわからない。首藤康之を使いたかっただけ? 松枝清顕チームにするには、年をくいすきているから? うむ。ま、観客サービス、息抜きみたいなもん?

卑下するものは徹底的に貶め、踏みつけ、歪め、毀し、惨めさの底に沈め、その屈辱、汚濁の中からなお、浮上してくる純粋さ、神聖さ、汚れなく清らかな魂を発見するのが、あのころの美学の定石ではなかったか? なぜ、見上げる役を美化するのか、私にはわからない。

市村さんのニジンスキー的な処理に逃げないのは、すごいけどさ。

美醜の対比と棲み分け、シビアにやらないと、大事な部分がぼやける気がする。ま、私も、リアルタイムで知っているわけじゃない。かつて、葬いの刻をチラ見しただけだけど。

美は、呪い。美は、残酷。美は、絶対。美は、宿命。

整形手術では、入れない聖域。狂気と熱情。

千秋楽、どう変わっているか、楽しみ。

 

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2018年11月9日 | カテゴリー : 日々のこと | 投稿者 : 章月綾乃