お腹が壊れていて、力が入りません。
年末に自分のために買った和光のショコラをすっかり忘れていて、
昨日が賞味期限だったのですが、食べられず、
もうデリケートな美味しさは失われていて、
こういうところが自分っぽいと思うわけですよ。
足らないとイヤだから、先回りして、結局手が回らない。
神田沙也加さんの後追いのニュース、なかなかショッキングでしたね。
昨夜はそうだったのかーで、お腹痛いで寝て(足もつって)
夜中に起きて、「いや、待てよ」と思い直して……。
まず、記事を全肯定で進めますと。
世の中には、人を罵倒する人としない人がいて。
今回の場合は、罵倒する人に当たっちゃったってことなんだけど。
でも、そもそも、「罵倒されたからって、死ぬか?」ってところを忘れてはいけないわけですよ。
罵倒されたからといって「罵倒される価値のない人間」みたいに自分を下げてしまうのは、間違いと私たちはわかっていますよね。
でも、「そうか、じゃあ、死のう」とか、「私が死んだら、この人は一生私を忘れないに違いない」とか、そっちに行っちゃうのは、やっぱりおかしいわけですよ。
だから、「ひどい。そんなこと言われたら、耐えられない」は、ちょっと情緒に走り過ぎていて、「いやいや、耐えられますよ」って話なんですよね。落ち着こう、ちょっとコロナ禍で変になっているよ、みなさん。
かく言う私も「いいよ、死ぬよ」って、「もういいかな?」と思ったことがあります。小学校3年生のころかな? 「死ねよ」を言ったのは、クラスメイト。小三メンタルね。
その時、ある女の子が「やめなよ」って言ってくれて、
「そうか、やめよう」って思って、しばらく命の恩人だなと思って感謝していたんだけど、二年くらいして(ずっと感謝してたんですよね)、「そんなんじゃないからやめて」ってハガキが来て、年賀状だったのかな?
ああ、そういうんじゃないんだって思って、感謝しちゃいけないんだと考え直したってことがありました。わかってないなりに、人との関係について考えた事件でしたね。それくらい他人との接点がなかった幼少期なわけですが。
つまり、小学校3年の私は、「生きていてもいいことがない」って思っていて、
「死ねよ」って言ってくるいじめっ子の言葉に、「今、死んだら、こいつに重荷を負わせられる。もうそれでいっか」って思って、結構本気で死のうと思っていたわけですよ。
で、やりとりを見ていた別のクラスメイトの女の子は、意外に私が本気っぽいのを見て、好きでもなんでもなく、むしろ嫌いだけど、止めてみたと。
そしたら、ずっと感謝されて困ってしまった、アナタとは関係ないのに。
大人になっても、男女のつきあいの中で、「死ねよ」が出ることもありますよ。
上流階級ではなく、ヤンキー系の登場人物でしょうけれどね。
で、その裏には、「死ぬわけがない」という計算もあるわけで。タカを括っているから、気楽に言えちゃう。罵倒組は、罵倒されたくらいでは人は死なないと思っているわけですよ。
なんだろうなあ、「そんな人にひっかかるなんて」って話でもあるんだけど、
「そんな人にだからこそ、認めて欲しい」「全肯定して愛して欲しい」が出てきてしまうんでしょうね。もっといくらでも、情緒が安定していて、人間的に丸い人はいるだろうけれど、そういう人は刺さらないわけ。恋は出来ない。
壊れているからこそ、美しさを感じるがあって。焦がれて、惹かれて、自分のものにしたくなって。
そういう心の背景みたいなものがあるわけで。
10日以上寝かせても、映画を2本見ても、まだ「世界一美しい少年」から抜けられないのですが、神田沙也加さんにも、もう余人が想像できない世界があって。
だって、松田聖子さんの娘ですよ。神田正輝さんの娘だけでも相当だろうけれど。やっぱり、「聖子ちゃん」は、異次元ですよね。
そういう二世たちの苦悩って、想像もつかない。
幸せもあるだろうから、人はそっちを言うしね。
よく頑張りましたよ。偉かった、自分の魅力、世界を作るのはどんなに大変だったでしょう。そして、国民的なスーパースターとお母さんをやらなければいけなかったのも大変でしたね。稀有な運命。余人にはわからないことばかり。
「死ねよ」って言う人はいる。
人を罵倒することに抵抗がない人もいる。
「死ねよ」まではいかなくても、「別れる」って言葉で人を測る人もいます。
あ、私もそっちの人間でした。だって、「別れたくない」って言って欲しいから。愛情が枯渇していて、飢えていて、底が抜けていて。
いっぱい愛を注ぎ込んでも、どんどん下に落ちていってしまう。
そういう穴を埋めながら、底をうまく斜めにしたりしてごまかしながら、
私たちは生きていくわけですよ。
うちの父は、罵倒する側の人間で。
今思えば、戦後生まれでモノがなくて、父親も戦争で死んで、ものすごい勢いで世の中が変わっていく中、4人の姉妹に囲まれて「あんちゃんだから」と大事にされ、やっと抜けたら、思うようにやれなくて、子供ばっか3人も出来て。
父親なりにかわいがってはくれたのでしょうけれど、でも、それ以上に、彼が子供だったから、子供にモノを投げたり、叩いたり、カッとなると何をするかわからなくて。母も従順ならよかったけれど、いちいち戦う面倒な性格で、その癖、子供の前では被害者ぶるわけで。
絶望的にお金がなくて、最初から「諦めなさい」って言われ続けていて。
そんな家の中で、どうやって自分を保てというのでしょうか?
どうやって、自分を愛して、世界でたった一人の存在で、かけがえのない人でって思えるのでしょう?
これは私の物語で、こちらを読んでくださるあなたにもあなたの物語があって、
「うちの場合はこういうことで」も、きっと重くて苦しくて。
小三の時に、「わかった死ぬよ」で「屋上から飛び降りたら死ねるよね」と思ったことはよく覚えています。全部終わりにしたかった、何も手に入らないから。
あの日、終わらせていたら、どうなっていたのか?
罵倒する人は、壊れています。
罵倒する人のそばにいる人も、壊れています。
でも、離れられない。だって、罵倒する人は、他の人にはないものをくれるから。「本気」が伝わってくるから。それは、愛情じゃなくて、無意識のSOSなんだけどね、罵倒する人も不安定で、自分にOKを出せていないから。
DVも同じ理屈で。
ひどいのはわかっている、でも、こんなにひどい一面を見せてくれるのは、愛しているからだろう、自分が必要だからだろうというよくわからない迷路に入ってしまう。記事がそのまま真実なら、「殴ってはいけない」は守られていて、
でも、立場を変えてみれば、本気で突き放さないと自分が壊れるくらい重かったのかもしれず。
幸せって、人を惑わす幻影みたいなものかもしれませんね。
あるかもしれないけれど、ないかもしれず。
あると思うと、どうして今、ないの?って不幸が加速していく。
もう一回書いておきます。
罵倒する人は、壊れています。
罵倒する人のそばに居続ける人も、壊れています。
「あ、壊れている」とわかったら、逃げろ! その世界線の延長には幸せはありません。罵倒するメンタルが持つ強さは、まやかしです。
「俺は弱い、俺は情けない」って他人に向けているだけ。逃げろ!
長くなりました。
記事を出してくださった方、ありがとう。
ちょっと自分を思い出せました。
小三の私が、「うん、生きる」って言っています。
世界を自分なりに定義するために、生きるのです。
男の人が怖かったのです。
強くて、圧倒的で。弟を殺しそうで怖かった。
だから、本気で抗ったら、「あれ? 相手も人間だった」と気づいて。
面白いのは、自分は大丈夫って思っていることですね。
父は嫌い、でも、愛されているって知っているヘンな子供でしたね。
うちの母親のイヤなところは、「お前はお父さんそっくり」って言うところでした。身近な手本なんだから仕方ないじゃないか。あほか。
そのあたりが原点ね。よくもまあ、生き延びたもんだ。
いや、最初からタフか。みっともなくてもさ、いいんだよ。きっとね。
足掻こう。