映画『黒川の女たち』を一緒に見に行った人が、岐阜に行きたくなったというので、そうだ、読んでおこうと思った本があったと思い出しました。
それは、松原文枝『刻印 満蒙開拓団、黒川村の女性たち 』。
でも、フラストレーションが溜まるだけ。
要は、映画の底本だったから。
どうも、背景にあるものが見えてこない。
「黒川開拓団が延命のために若い女性たちを差し出した」
「四代目遺族会会長が、乙女の碑に碑文をつけた。大変だった」しかわからん。
でも、関連本として挙がってきた平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち 』がとてもよかった。
開拓団の中のヒエラルキー(性接待に駆り出された女性には保護者がいない、または、開拓団の中で立場が弱い)。
勝者(ここでは、ソ連兵、立場逆転の漢民族)による略奪、凌辱。
なるほど、そういう背景ならば、いろいろ腑に落ちる。
松原さんと平井さんの視点の違いが際立つ。
平井さんの本『ソ連兵に~』では、朝鮮、および、漢民族の慰安婦について触れている。そうだよね、やっぱりあったよね。
また、輪姦された日本の女性が裸のまま、車から放り出され、そのまま、轢かれた凄惨な記憶のくだりが心に残る。彼女は一命を取り止めたのか? 同性のソ連の女性兵士は高笑いしていたという。壮絶すぎる。
日本人もやっている。ソ連の人もやっている。
おそらく、人間はみんなやる。稀にやらない人がいるだけの話。
理性や情緒、良心のタガが外れるのが、戦争なのだろう。
引き上げ後の同胞たちからの心ない言葉。
そうね、「(ソ連兵にやらせたんだから)俺にもやらせろ」はあっただろうと想像していた。
男性たちに取って性行為は、非常によいものなのだろう。
同時に賢者タイムで、性欲に流された自分、情欲に負けた自分を嫌悪する。
だから、「そっちが誘った」「好きもの」「お前らもいい思いをしたくせに」的な蔑みになっていく。なんという未熟さ、なんという責任転嫁。
でも、それが、昭和の価値観。私もよく知っている。肌で理解している。令和も今も絶滅はしていない。脈々と受け継がれる男性側の原理。
昔、20代のころ、タクシーで聞かされた話、「男性同士でやると海綿体が刺激されて、本当にいい」ってやつ(客に話す話かね?)。あの話の理屈で、「じゃあ、お前が掘られてくれば?」みたいな気分になる。若い女の子たちに犠牲を求める前に、ケツ差し出してこい。それから、「俺もヤラれたら、頼む」ならわからなくもない。「オレも行くからさ」まあ、ありえないんだけど。ないない。
日本人によるラオスでの児童買春の話も上がってくる。
クルド人によるレイプに対する判決で「人を殺したわけじゃないのに」的な抗議もやけに引っかかる。
一度でも性犯罪を犯したら、去勢しちゃえばいいのに。性機能を奪え。ご自慢の竿も切り落とせ。
痴漢も同罪だよ。手を切り落とせ。
成長中の小さな女の子たちを傷つけないで。どんな業の深さなの?
おっといけねえ、ハムラビ法典か、暗黒の中世にスリップしちゃう。
本当に昭和にあった「いやよいやよも好きのうち」が男性側に根強くある限り、
女性は戦利品、女性は道具は、ずっとある。消えるわけがない。
今が「つかの間の平和な時代」になりませんように。
出来るだけ、ナチス映画を見るのは、人がどんなに残酷になるのか、
惨い生き物なのかを理解しようと思っているせい。
でも、今はなんの教訓にも、制止にもなっていない。
満州で起こったことは、世界各国で起こっている。
なぜ、雄と雌がいて、性行為に強烈な快感が備わるのか。
その前提がなければ、世界はもっと平和な気がする。
さて、ここで問題は、この先似た状況になった時に、
若いお嬢さんたちに「生きろ」と言うのか、
「頼む」と頭を下げるのか。
「一緒に死のう」と言うのか。
その時にならないとわからない。どれも正解で、どれも間違い。
60歳間近な初老の自分に何かできることがあるのか?
口減らしで死ぬしかないんじゃないだろうか?
二冊読み進むうちに朝になってしまった。眠い。