faniconにも書いたのですが、こちらにも。
歌舞伎座で歌舞伎を見るつもりで行ったら、和太鼓ベースの能もどきが展開されていて、苦笑い、という図は、すでに、私の中に約束事がインプットされているから起こるわけです。
お約束をしていない人は、「わあ、こんなのもあるんだ!」で素直に受け入れられます。約束と違うじゃないか!は、そこで、おしまい。
どちらが正しいのか。どちらが楽しいのか。
んなことではなく、ひたすら、コレジャナイ!なんだけど。老舗料亭に行ったら、創作和食が出てきたみたいな。ここで魚食べるなら、オレンジとオリーブオイルじゃなく、塩でいいんだけど!なわけですが。
良くも悪くも、制約がない空亡みたいな状態なんですね、今の梨園。たまにしか行かない私、たいして見ていない立場でも、よくわかりました。
空亡、いわゆる天中殺は、シフトチェンジのチャンス。ガチガチのしきたりをぶっ飛ばして、新システムが作られていくのでしょう。
今回、玉三郎さんは、ご自身の最大の武器である美を捨てます。美が消えると、彼である必要がなくなるわけなんですが、それもまた、なにかを象徴している気がします。たぶん、古典の世界でやったら、捨てても、なお、美しく、なお、もの狂おしく、胸に迫り、切なかったはず。しかし、ご自身が慈しみ、育て、満を持してぶち込んだ鼓動ワールドは、ものの哀れみたいな要素とすこぶる相性が悪いのです。そこにもまた、玉三郎個人ではなく、作品を評価して欲しいという切なるものを感じるんですが。こういう強引さしかなかったの?と冷静に処理をしつつ、また、だから、新作でならやるけれど、古典では頑なに拒む、みたいな、才ある人の美学、美意識もあるのでしょうと忖度したりして、玉さまを止めて、いや、止まらんねと諦めました。
ご自身のショーでやればよろしいものを歌舞伎座にぶっこんでくる、それを許しちゃう松竹さんがいて。
私自身は、今はノーサンキュー、失せにけり待ちだけど、これ、定番化したら、慣れちゃうかもしれないし、すでに、日本のカルチャーは、かつての聖域を二次元化して消化し、クールジャパンとして再構成しているし、そういう混沌と境の喪失、再設定の時代に生まれた私たちもいるわけで。
ま、何があっても、江戸から明治ほどのぶっ壊れ感、なんじゃそりゃは、ないわけで。歌舞伎見に行ったら、和太鼓大フューチャー、能もどきだったくらいで、わさわさオタオタしてては、いけませんね。
しかし、松竹さん、叱られているでしょうね。ご贔屓筋に。また、よいよい、好きにおやりと鷹揚に受け入れる方もいらっしゃるでしょう。
つまり、これ、今が空亡みたいなもの、ということ。歌舞伎は現の写し、私たちの世界が変動していく、している証なのでしょう。
猿之助歌舞伎のときは、どうだったのかしら? あのころは、私はまだ若く、古典も新作もわかってなかったですから。
蜷川さんも、浅利さんもいないんだよなーと、連想は広がりつつ〜。
今秋は、やたら舞台を見ます。また、書きます。