鼻鍼15回目2/ゆだねること

昨日、笙の稽古で、ちょっと面白いことがありました。

体調を崩されている方がいて、「肩、揉みましょうか?」みたいな流れになって……。
ちょっと体に触れてみたら、一枚板のように硬かったんですね。

で、「これ、揉むよりもさするほうがいいかもですね」みたいになって、
少し流れを作っていたのですが。
ふと、『無意識の整え方』にあった「あ、体と戦ってはいけない」、
「気を合わせることが大事」というのを思い出し、ただ、触れて感じるだけ……を心掛けてみたところ、
「あれ? 柔らかくなりましたよね?」になりました。

もちろん、治るわけじゃないんですよ。
でも、体のこわばりが100だとしたら、90とか、80くらいまで一時的に緩みました。

面白い!!!

なに、これ?

でね、また、笑っちゃうことに、うちの先生ったら、ご存じなんですって。
『無意識の整え方』の著者の前野隆司先生にもお会いしているし、私が一番深く興味を持った
第四章の稲葉俊郎先生は、ずいぶん前から敬愛なさっているんですって。

まただよ!

またきたよ!

笙の先生とのご縁は、とにかくおかしいんですよ。
孫悟空とお釈迦さまみたいな感じで、どこに行っても、先生にたどり着いちゃうのです。
「あ、知っていますよ」とか、「仲良しですよ」とか。
おいら、孫悟空の気持ちがよくわかりますよ。
ぶんぶん飛んでいくのに、どこにいっても、どこまでいってもお釈迦様の指の上という!

ただ、ひとつ胸を張って言えることがあります。
私は、先生の後追いはしていないのです。

先生についていってお会いしたとか、興味を持ったとか、勧められてやってみた……みたいなこともありますが、
(ホラ、媽祖廟も最初は先生がお参りして動いて、兄弟子にくっついていったのが始まりなので)、
そういう流れよりも、圧倒的に、私は私で好き勝手にやっているのに、簡単につながる……というパターンが
多いのです。

もう逆に、何も接点がないと、「あれ? なぜ、これはつながらないのだ?」と不思議に思ったりするくらい。

しかしなあ、星の数ほどある書籍の中で、たまたま手に取った本で、
「お、いいことが書いてあるなあ」が、まさか習い事の先生につながらなくてもいいですよね?
ねえ?

稲葉俊郎先生のお話は、いつか講演会などで聞いてみたいと思っていたので……。
でも、それは、思っているよりもずっと早く来そうな気がしますね。あはは。

ま、必要なときに必要なことが起こり、最良のタイミングで動くのでしょう。

しかし、治そうとするのではなく、感じること、合わせることは、ペットヒーリングの本かなにかでも
読んだ気がします。
「治そう」なんて思わず、温かさとかをイメージしていく。
病との付き合い方も、きっとそっちなのでしょうねえ。

きっとヒーリングをお仕事にされている方ならば、当たり前の感覚、
基本のキなのでしょうけれど、私、昨日初めて体感しました。
人の体って、ぼんやり波長を合わせるだけで流れるんですね。面白い!

で、本日の鼻の調子は、ダメージからの回復期という感じ。
匂いはまた、小休止。
でも、自分の体を戦場にしない思想で、ちょっと優しく、柔らかく、つきあっていこうと思います。

 

 

 

太食調調子

演奏すると、だいたい16分らしいです。

太食調の調子を吹きました。私にしては、珍しく4回も。他も合わせ、一時間半くらい、笙を吹きました。

で、わかったこと。

お腹を温めたいなら、笙を吹けばよいのです。赤ちゃん龍も、ホカホカです。つーか、笙で育てるなら、龍ではなく、鳳凰なのでは?

さて、私がお腹に宿しているのは、なんでしょう? いや、考えなくていいですよ。単なる連想ゲームですから。

また、やはり、太食調の調子なのです。私にとっては、この曲は恋の曲。若く、美しい男性に恋をし、立場の違い、身分の違いから諦める物語が浮かびます。

二人が知り合うのは、三句。恋に落ちるのは、四句。「言」は、胸が高鳴る音に聞こえます。

やがて、六句で、晴れやかな舞台となり、華やかさの極みで、別れを予感します。そして、それは、すぐに確信に変わり、何事もなかったように、二人は元の距離に戻るのです。

ま、こんなこと、考えてるの、誰もいないと思いますが。ふふふ。