谷文二、大間違いでした。
文一は、養嗣子で、弟子。
文二は、谷文晁50歳のときの長男だそうです。
しかも、文二が6歳のときには、文一は没します。
前妻と後妻の子の確執ではなく、まったく違う人間関係が、浮かびますよね。
前妻幹々と文一は、8歳差でした。
ごめんね、カンカン。
図録の年表、なぜ、娘の橘の誕生は記載されているのに、文二誕生は、スルーなんでしょ? よくわからないですね。
追記。なるほど。
だから「十哲図」に、文一がいないんですね。
一門の絵師を描いたのに、姿がなく、心配していました。
もう亡くなっていました。
あんた、文一のなんなのよ〜の世界ですね。わはは。
追記。
文一は、谷文晁と幹々の長女と結婚しました。
だいぶ、イメージが変わってきました。
もう少し、調べなくては!