脳も心も、身体も

ほぼ限界!

映画はたくさん! 私の体は、拒絶しています。が、そこに、わざと突っ込んでいくのです。セルフレイプ、映画編! なにもそこまで!ですが、辛いからこそ!だったりもします。

くそー、辛いな。眠いな、絶望的に時間がないし、猫は荒れるし、旦那は冷淡だし、生活は崩壊しているし、仕事は追い詰められるし。でも、あえてやる、のです。

一見、無関係に見えて、観るもの、聴くもの、話すことなどは、大きなひとつの流れ、時代なのだと感じます。必然があって集まってきたパーツたち。

日曜日は、友人のライブを聞きに行きました。その前に、「ワンス アポン ア タイム イン アメリカ」を突っ込んだわけですが。

ライブは、目指すところがよくわからず〜。MCで繰り返される恩師の話、近況報告、アットホームでは、ありますが、そういう懐かしサロンをやりたかったのかなー?といえば、それは違う気がするし。衣装はバラバラ、スタンツもバラバラなのでしょうね。

あー、この切り口なら、一本書けそうな気はします。再会をきっかけに懐かしいバンドを復活させることになったけど、いざ、初めてみたら、みんな、バラバラ、今の自分の都合ばかり主張する、さらに、過去の癖やこじれも見えてきて、「あー、こいつ、こんなやつだった!」的な! ドラマや芝居ならば、それを乗り越えて、かつてあった友情、仲間意識、夢を取り戻して、大団円ですが、日曜のライブは、パランパランのまま、終わった気がします。

私がわかんないのは、もうみなさん、いいお年なのに、なぜに衣装を合わせられなかったのか。お揃いが理想だけど、せめてテイストを合わせるは、ステージの基本な気がします。使い回し考えて、白いシャツとかでいいと思うんですよ。それだけで、特別感出ますから。また、いくらコーラスでも、各自のソロナンバーで勝負する時間を作らないのか、ジャズピアニストを連れてきて、ジャズナンバーなしは、あまりにも失礼ではないのか?そのあたり、かな。

つきつめると、本気のぶつかり合いを避けて、さらっとさらった作りで、そうすると、こちらもふんわりな鑑賞になりますよね。

一緒に行った子に話したら、「この先もやるなら、考えたほうがいいかもだけど、今回はいいんじゃない?」でしたが。

最近、私は、一期一会を考えます。もう少し、時間はありそうですが、未来は有限で、たぶん、そう遠くないタイミングで、「おしまい」は、来るでしょう。

生まれた時から私たちは、死に向かって進み、死を恐れる気持ちから怪談やホラー、サスペンスが生まれ、バリエーションのひとつとして、「十二人の死にたい子供たち」があったりするんでしょう。

40、50代が為すべきことは、ある程度の密度、クオリティを経験で高めていくことではないかと。それを自分から引き出すために、心身にムチを打っているんですけどね。

たたき台なくして、洗練はありえませんから、まず、やってみた!は、必要なこと。やらない人の何倍も偉大です。まずは、友人は偉い!のです。

ただ、やるなら、本気でぶつかれたらいいね。大人の上質を出せたら、さらにいいね、と感じます。シュミレーションができるのが、大人の強みですから。

話が変わり、昨日見た「マルジェラと私たち」。

天才と彼のチーム。天才のひらめきを現実化するために集まってきた人たちは、天才の失踪により、いきなりハシゴを外されます。映画は、回顧録、後日談ですが、かつて「不在が証明の証」だったデザイナーの失踪、永遠の不在は、未完の物語、行き場を失った情熱の記憶、放り出された夢のように作用します。

“We”である幸せ、誇り、充実は、“We”である限界、さらに、崩壊を経て、喪失の時間に変わるのです。

みんなで作ってきた物語から、創始者が降りてしまいます。残るのは、かつて私たちだった私だけ。

残酷なリアル。

ブランドは、大手に売却、吸収され、かつてのきらめき、センスは、トレースされ、改変され、マルタン・マルジェラ不在で、これからも、きっとモードの一角を担っていくのでしょう。

誰が悪かったのか? たぶん、誰でもない。魂を売らずに商業ベースには乗れない。ヴィヴィアン・ウェストウッドの映画でもあったように、本人不在のプロジェクトが一人歩きしていきます。

忘備録として。やはり、どうしても、引っかかるので。

「夜明け」が破綻するのは、身分証明書である免許証を焼くからです。「万引き家族」で焼かれるのは、服ですが、服はアリ、が、今の日本で、免許証の焼却はありえません。国は、私たちをナンバー管理しようとしています。この国で匿名であるためには、まず、ラベルが必要です。人権を得るための条件として、身分がいります。

誰でもないは、現代日本人においては、ありえないわけ。私たちは、名前、居住地、家族構成、果ては、趣味嗜好まで紐付けされ、管理されています。

たしかに、無届けの子供もいますよね。しかし、それとは、話が違います。「夜明け」には、登録を取り消すだけの必然性、ドラマはないから。今の日本を描くなら、じわじわと紐づけされる恐怖を踏まえなければ!

犯罪者でもない限り、身分や戸籍は捨てられない。良心の呵責で死を選ばないなら、生きる手段は持たないと。

パラパラした内容ですが、共通するのは、「私」です。私たちは、自分を捨てられない。私たちは、自分として生きるしかない。ならば、どう生きるか、どう動くか。

生きるのは、窮屈。が、窮屈に詰め込めば、詰め込むほど、はみ出すものがあり、たぶん、私は、そこに、命を見るのです。

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2019年2月13日 | カテゴリー : 日々のこと | 投稿者 : 章月綾乃