「書く」効用

「書く」という作業には、力があります。

昨日、「棺の夢ばかり見る」と書かせていただきましたが、実は狙いがありました。
インターネットという不特定多数の人の目に触れるところに記録することで、もう見なくなる気がしたのです。夢が示す役割が終わるというか。
案の定、きょうは、違う夢で目覚めました。

篳篥の先生が演奏しながら、なぜか拍(はく)を取ってくれるのです。
リアルには、無理ですよ? でも、夢ではアリなんですね。
ホラ、吹け。ちゃんと吹け。
だから、「笙、吹かないと!」で、飛び起きました。
ハイ、まったく触れちゃいません。

父が余命宣告を受け、葬儀を経て、きょうで25日目です。
なんだか感覚的に、ちょっと遠いところにいたような気がします。
身内が死ぬって、こういうことなのですね。
特別な悲しみがなくても、意外に強く、異界にひっぱられます。

面白かったのは、神棚に向かうのを忘れていたことです。
数日経ってから、「あれ? なんで忘れているの?」と思い、でも、意味がある気がして調べてみたところ、忌中は和紙などを張って、穢れを祓うんだそうですね。
慌てて、適当な和紙でふさぎました。

こういう無意識の行動って、すごく面白いですよね。
私は、よく地元の人たちに忘れられたような神社さんにひっぱられるのですけれど。
そういうのと、感覚が近いです。

意識ではなく、無意識の部分で、なにか「わかっている」感じ。
そうそう、年賀状を作らなくてもいいような気がしたこととか、ね。
昨日よりも、ずいぶんいいです。明日は、もっとよくなるでしょう。
あとは、日薬。時間の経過は、ありがたいです。

盤渉調の調子にでも、挑戦しますかねー。それなら、いいかもしれません。
よし、笙を温めてみましょう。

 

 

 

 

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2014年1月20日 | カテゴリー : 日々のこと | タグ : | 投稿者 : 章月綾乃