ふたつのお別れ

昨日未明、父が他界しました。
おかげさまで、安らかな旅立ちでした。
ご心配くださったみなさま、本当にありがとうございました。
当方は、元気にやっております。いなくなった寂しさ、悲しさは、なぜかほとんどなく、ただただ、無事に見送れた安堵でいっぱいです。

そして、危篤状態ではなくなったため、夜は、他のお通夜にうかがえました。
姑には叱られましたが。
「実父の命日に、よそ様にうかがうなんて!」と。
世間的にも、欠礼しても許される状況だとはわかっております。
わかっておりますが、うかがいたかったのです。

そして、うかがえてよかったです。
昨日のお通夜のご宗派は、浄土真宗ということでした。
「なむあみだー、なむあみだー」
わからないなりに、お経の断片でも拾おうと耳を澄ませて。
音の高低のうねりが、どこか神楽歌にも似て、「きちんと雅楽を学ぼうか」という気持ちにもなりました。仏教も、面白そうだと思ったりしました。
お坊様が、南無阿弥陀、南無阿弥陀と唱えるとき、広い広い空間で、ただ、ひたすら、阿弥陀様を求める素直な気持ちが見えたような気がしました。

宗教は、様々な問題を起こしますが、それでも、やはり救いがあります。
白水阿弥陀堂にまた、うかがいたいと連想も広がりました。

一夜明けてきょうは、亡父の納棺でした。

これまで、私は死がケガレという感覚がどうもわからなかったのですが、今回は、確かに通常の状態ではないと理解しました。

遺体の冷たさは、生者とは一線を画します。
この冷たさをお仕事に含んでいらっしゃる医療関係のみなさま、ご葬儀関係のみなさまに、深く感謝しました。

年末年始の変則で、葬儀などは、少し先になります。これもまた、残された母にとっては、優しい時間になるのかもしれません。
ふたつのお別れは、私の中で重なり合います。こういうのも、ご縁なのですね。きっと。

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