神様のコト。

過日の「怖い絵」展で見た一枚の絵がひっかかっています。
それは、「神は皆殺しを命じ、背いたら、見放された」という一枚です。

信仰も、突き詰めれば、ひとつ同じものを信じている……というワンネス的な世界観、
私も、ずっとこちらに落ち着いていたのですが、
「んー、それは、近代の理想かも」というところに立ち戻っています。

違う神を信じていても、実は、同じものを求めている的な視点を最初に
教えてくれたのは、C・S・ルイスのナルニア国物語。
タシの神を信じていても、突き詰めれば、アスランなのだ的な展開に、
幼い私は素直に「すごい!」と思ったものでした。

2008年あたりから、神社巡りが始まって、有名どころにあちこち伺い、
いまもなお続く対立、質感の違いなどを自分なりに感じて……。
総括のように思い至ったのは、神様は、地元のものであるという究極論でした。

熱心に通ったとしても、地元の氏子さんに叶うわけがないのです。
日常の中に溶け込む信仰、ああ、私はよそ者なのだと繰り返し感じて、
ある時から、無理に神社を回るのはやめました。

それでも、いわゆる「呼ばれる」状態にはなりますので、気になったら、
足を運びますが、以前のように「神様って何? 神様ってどんな感じ?」は
すっかりなくなりました。

そこにスッと入ってきたのが、横浜の媽祖廟で、媽祖様には、
「いいから、来なさい」って言われている感じがしますね。
なんだろう、この「いいから」って?

文字にすると、ちょっと笑ってしまうのですが、ともあれ、
そんな感じで、「神様は、地元のもの」「神様は土着」論を
ぼんやり持っていたのですね。

そこに来て、この「神は皆殺しを命じた」ですよ!

自爆テロも連想しますよね?

つきつめると、同じものというのは、スピリチュアル的には正しいかもしれないけれど、
スピリチュアルじゃない、もっと根源的な部分で、
全体ではなく、自分、自分とその家族、一族をお護りください的な祈りが
本当はベーシックで、我欲にまみれているからこそ、非常に強いのではないかと。

ぼんやり、そんなことを考えております。

現代の日本に生まれた私としては、「神に皆殺しを命じられたら」、
まず、自分の精神疾患を疑ってしまうでしょう。
そういう客観性が機能しない場合、素直に信じたら、皆殺しを選ぶかもしれません。
鬼畜米英も同じで、それは、わりとすぐにさかのぼれる過去でもありますよね。

同じ神様、仏様を信仰していても、どんどん分離して、派閥が生まれていくのが
人のサガですから、神様が違えば、そりゃ、戦いも起こりますよねー。
神々の戦いがすでに、神話の中に織り込まれていますし。

私自身は、どうも成長のステージ、変化の過程で、
神様の預かりが変わる気配を感じております。
神社巡りの最初は、とにかく、出雲に始まる国津神で、
あまりにも出雲に行き過ぎて、「伊勢に行きなさい」的な言葉がひらめき、
それでも、出雲に行っていったら、もう何も感じなくなって、
「ああ、今はご用事ないんだなあ」と思い、やっと伊勢に行きました。
その後、お稲荷様のネットワークに組み込まれたフシがあり、これは、
今でも続いている気がしますが、去年からはハッキリと媽祖様ですね。
いきなり中国、台湾系で、なんというワールドワイドなのだ!ですが。
国津神のターンの間は、諏訪の吸引力も激しく、とにかく、あちこちで、
「ん?」と気になると、諏訪の神様なんですよ。で、今はそういうことが
ほとんどなくなりました。

うちの旦那は、明らかに弁天様。
海に属している人なのだと思います。
江の島とか一人で行くと、「なんで、旦那を連れてこない?」と
叱られる気配を感じますよ。あはは。妄想だとしても、いいの。面白いから。

神様は、不思議です。
心霊現象も同じで、私は、私にはよくわからないけれど、
きっとあるのだろう的なスタンツなのですが。

近代的なワンネス思想から、自分の体験、体感を通しての土着回帰、
さらに、古き神の無茶ぶりの一枚。
今でこそ、無茶ぶりとか言えちゃうけれど、リアルタイムではただただ畏怖の念ですよねー。

神に対立する民族の皆殺しを命じられたら?

この視点、持ち続けたほうがいいような気がしております。

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