「ピピン」は、サーカス仕立ての自分探しの物語。ファンタジック、かつ、ノスタルジックに進んでいきます。
心の世界、空想のフィールドだから、失敗したら、やり直せます。これじゃない、あれじゃない、繰り返し、シミュレーションして、充実感のある人生を模索するのです。
ピピンは戦争、セックス、王位、平凡な暮らしに身を身を投じ、どれでもない、これでもない、もっと違う何かを求めていきます。
やがて、特別な僕、ピピンのためのグランドフィナーレの時間が近づき〜。
今回の日本公演、アクロバティックな群舞の動きは、見事なのですが、全体に健全で、道徳の教科書みたい。
違うよね?
足らないのは、危うさ。
享楽が一瞬で反転し、破滅に向かうみたいな、狂気と刹那的な空気、笑顔を剥いだら、そこに空虚があるような恐ろしさ。
キャンデーカラーの夢の向こうに潜むのは、何者にもなり得ない自分、空っぽの怖さ。
映画ならば、『天国でまた会おう』なんだよ。バカバカしく、豪華で、懐かしく美しく、怖くて悲しい。
なんじゃ、この薄っぺらさ。
城田優さんも、クリスタルケイさんも、頑丈すぎて、壊れない。健全でピュアで、まったく、脆さがない。
なんでこのカンパニー、「ピピン」が危うい話だと気づかないの?
遊園地にサーカス、反転したら、怖いものだと、悲しいものだと気づかないの?
見ながら、終始退屈し、悪くはないけど、パーツがハマってない、好きなはずなのにつまらない、何がいけないのかわからない、のは、わかりました。
ご清潔、クリーン、迷いがなく、健全だから。
底辺に狂気が、絶望が、狂おしさ、やるせなさ、閉塞感がないまま、単なるエンターテイメントに仕上げているから、子供っぽいわけ。
もっとわかんなくていい。もっとはみ出していい。もっとヒリヒリしていい。
役者にはわからない視点。城田さんやクリスタルケイさんに、狂気が備わっていたら、自然に出るけど、彼らは健全、ならば、演出家が引き出さなきゃ!
が、今回のカンパニー、フォッシーニュアンスを踏襲し、アクロバティックな組み立て考えて、「ピピン 」完成!ってなっています。型は整っても、魂入ってないじゃん!
これ、最近の病んでいるアメリカ、案外、うまくやってるんじゃないかな? ブロードウェイは、たぶん、危うさ、脆さ、出ていると思います。
日本人、まだ、意識眠っているから。
世界は、壊れようとしている。その中で、不変なもの、確かなものを、特別なもの、自分だけのものを探そうとしているのがピピン 。
もっとヒリヒリしていい。しなきゃ、ニュアンスが生きない。甘いだけのお菓子なんて、もたれるでしょ?塩味、スパイス、人生はやるせないもの。だからこその夢。
「蜘蛛女のキス」で、ドラックで飛ぶシーンあるじゃない? アレだよ、アレ。あの浮遊感、わけわかんない幸福感、それに、コットンキャンディーカラーがついて、わさわさサーカスな人たちがいて、子供返りしている話が、ピピンなんだってば!
なに、子供の価値観、大人の話にすり替えてるのさ?
なに、甘口仕上げにしているのさ?
やばいよなー、白痴化進んでるぜ? 日本カルチャー。かくいう私も、この仕掛け、違和感の理由に気付くまでに時間がかかりすぎ。見ながら、わかんないとダメだわ。精進します。ハイ。