四部作のうち、2作を見ました。
正確には、1作は見てないです。劇場にはいましたが、「ああ、これはいらない」って思ってしまって。全捨て。ノーサンキュー。ずっと書き物していました。
別に、お能を神聖化しているわけではないのですが、
あの削ぎ落した世界、わからない謡の言葉がいいんですよ。魅力なんですよ。
わかりやすくやりたいなら、現代劇に仕立て直すべきだと私は思うし、
お能に新しい楽器はいらない。それは、観客が自分の脳内で聞くべきものだから。
すり足すらちゃんと出来ないのに、真似事しても仕方ないって思うんですよ。
ならば、仕舞で部分を見せてくれたほうが何倍もいい。
本当にまがい物で、体が受け付けない。
やりたいのは、わかる。わかるけれど、ならば、正当に向き合うべきだ。
創作でやりたいなら、能の枠組みを外せ!
これが上位変換と思っているのかもしれない。解釈違いで、話にならん。
最近、思うのは、客のことを考えていない興行はダメだということ。
パイプ椅子や丸椅子でいいと思うのは、傲慢ですよ。
座布団敷いたところで、体はつらい。
席種別に自由席はいいけれど、開園1時間前の整理券、会場が40分後で、間になにすればいいの? どこにいればいいの?
そこに、愛はある? 主催の都合をこちらに押し付けているだけではない?
この前の三谷幸喜の青年館も、これだけ、集客できるキャストで、ロビーもない、トイレが36しかないって、愛がなさすぎるって思ったけれど、今日はそれを超えていて。
昨今の一万越え、二万越えのミュージカルみたいな世界もどうかと思うけれど、
ギャラリーで演劇をやるならば、それだけ、客に不自由を強いていることに気づかないといけない。みなさん、つらそうだった。私も「立っていいかな?」と思いながら、ガマンした。
私の前に杖を突いたおじいさんが階段を支えてもらいながら、上がっていった。
彼は、4,000円のチケットだったんだろう。でも、階段上らせる?
よろよろ、そこは、裁量でなんとかならないの?
60人くらいのキャパだろうか?
トイレがひとつでいいと思っている?
能をやるなら、伝統の中で。
インスパイヤならば、原形を感じさせるくらい遠くへ。
静寂を聴く芸術に、余計な音はいらない。
私だってただ、見ているだけだよ。でも、見ているだけでも、「ここがツボ」「ここが醍醐味」がわかってくるものでしょう? そういう大事なところが全部外されていく。本当に解釈違いなんでしょうね。まあ、仕方ないね。
私にとって、能楽は降霊術。さまよえる魂をつかの間、人の体に宿して、お慰めしてお帰りいただくもの。
それを超えられるなら、おやりなさい。と思う。
能の技法を生かして、別の芸術に組み込むのはアリでしょう。
でも、降ろせないレベルなら、やっちゃダメだ。技量がないのになぜ手を出すのか、さっぱりわからない。あちらとこちらの間、神や鬼の領域。
たとえば、同じ題材が歌舞伎だとニュアンスが変わる。そういう次元のチェンジが必要だろう。
ライフアートユニオン主催 《NOH BORDER PLAYERS》第一弾 創作能上演プロジェクト ~世界の神話を巡る~ QUARTET RIVERS-夢 幻 流 転- | EARTH PLUS