「獅子団乱旋は時を知る」

能の『望月』の中の一節。
敵討ちのクライマックス、敵を油断させるための余興としての「獅子舞」。
こちらはいわゆる能の扮装ではなく、急ごしらえで、不思議なリアリティがあるのですが、
この獅子に扮するかつての父の家臣・友房を招き入れるために、子方が叫びます。

まだ、幼き人。
能の世界よりも、現世に近い子方さんでしたけれど、
一生懸命、大人たちに言われたことをこなそうとしていたのが伝わって、
「能の子方は、自分だけが子供の枠で、ここにいるんだなあ」と改めて不思議を思いました。
すべての大人が見守っています。
そうやって、意識が磨かれ、育って行くのでしょう。

獅子を招き入れる「獅子団乱旋は時を知る」は、まだ未熟で「獅子」しか聞き取れませんでしたが、
ほぼほぼ、「ししぃー」みたいな叫びに、不覚にも涙がこぼれました。そうか、そうか、
本来ならば、自分の手で討ちたい父の敵を家臣に託さなければならないのか。
拙さが、かえって不思議に響きました。

昨日の敵役、望月秋長は、早い段階で縁の不思議に気づいていたように見受けられましたが、
「こは何者ぞいかなる者ぞ」
「さてまた亭主は誰ならば かほどに我をばたばかりけるぞ」とあるので
最後で気づくのかなあ???

そこは、演ずる人の裁量で、面白さなのかもしれませんね。
敵討ちを終え、去っていく友房の背中は泣いているようにも見えました。

感情がストレートに出るのが、喜多流なのだろうと仮説を立てたところですが、
だからといって、「観世ではなく、喜多」というのは、少々、乱暴だなあと思ったりします。
四半世紀の時を経て、言われっぱなしだったのが、反論のターンに!?
(言った人は、見てないよ!)

感情を型の中に流し込み、それを伝承させてきた世界にも、美学があると思うんですよね。
感覚的には、喜多流、響きます。気持ちがいい。言葉に合わせて呼吸をするだけで、
体がラクになっていきます。健康法としての謡のお稽古をするなら、喜多流かもしれません。

20代の私は、本当にいろいろな大人に言われっぱなしだったので。
もうひとつ、忘れられない「人から言われたこと」に
「20代のうちにインドに行っておけ」があります。

20代のうちに、インドに行き、火葬とかを見ておけって。
カメラマンさんなんですけれど、インドで撮った火葬の一部始終を見せてくれました。

20代なんて遠い過去になり、インドには行くチャンスは2回あったのを両方空ぶって、今に至るのですが。

まあ、大人たちは、若い生意気な子供に、本当にいろいろなことを言うものですね。
みんな、自分の色に染めたいのですよね。
でも、その先輩風の中に、なにがしかの真実を感じるから、心に残るのでしょう。

もうひとつ。
「ししぃー」の仲間。
渋谷で乗り換えて、「セルリアンはどっちだ?」しているときに、道案内を求める声を耳にしました。
「ハチコー、どこですか?」
外国の方のイントネーション、妙にかわいくて。

ハチコーとししぃーの夜でした。ハチコーもししぃーも、尻上がりで読んでね!

 

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