「信じるな」

きょうは、不覚にも涙がこぼれました。

世良守行さんの『通院でケアする! アルコール依存症の早期発見とケアの仕方』という本を読んでいたのですが、突然、心に刺さる言葉が出てきたのです。ちょっと引用しますね。

“クラウディア・ブラックの著書『私は親のようにはならない』(斎藤 学訳/誠信書房)の中で、「信じるな」「しゃべるな」「感じるな」がアルコール依存症の過程の子どもたちのルールであると述べています。
子どもは(酒を)飲んでいない親からも、飲んでいる親からも「信じるな」のメッセージを受け取り、いつの間にか親の言葉を「信じてはいけない」というルールを心の中に作るのです。親はあてにならない。何も期待できない。大人のいうことは信じないほうが傷つかない、などと考えるようになっていくのです。”

うわー、ホント、このまんまの幼少期でした!

“例えば、母親は父親のことを「だらしのないお父さん」といって愚痴ばかりこぼす日もあり、「飲まなければお父さんはいい人」といったり、「離婚をしたい」、「お父さんのことは心配しなくていい」などと、口を開くたびに言うことが違う。次の場面では、「あなたがしっかりしないからお父さんがお酒を飲む」と子ども自身の問題にされています。このような一貫性の乏しい、相反する言動が交わる中で子どもは育つのです。”

これは、いかにもありそうです。あちこちに転がっていそうなお話です。
うちもそうだったし、きっと、「うちも」「うちも」なんじゃないでしょうか?

ちょっと、「信じるな」に話を戻しましょう。

そう、私は、大人を信じられない子供でした。
大人、もっと言えば、人間を?

17のとき、バイト先の店長に言われました。
「お前、この人をボスにするって決めたら、その人にはちゃんと従えよ」
つまり、全然従ってなかったのでしょう(笑)。逆らったつもりはないのですが、ね。
この段階では、大人を信じていませんね。

そこから、記憶が少し飛びまして。
気づいたら、人を信じる人間になっていました! あれ? どこで、どうなったのでしょう?

きょう、わかったのは、「信じるな」は、明確なメッセージとして受け取ったのですが、どうも「しゃべるな」「感じるな」は、ヤダったみたいですね。
我が家は壊れている、親はおかしい。私はつらい、怒っている的なことは、わりとストレートに出してきました。
そこかなー? 機能不全の家庭に飲みこまれなかった勝因は。

ただ、飲み込まれなかったけれど、きょうは、涙が出ましたよ。
胸が詰まります。

きっと、人に見せないように、あちこちで似た痛みを隠し持っている子供たちがたくさんいるのでしょう。
そして、過去に受けたダメージを癒しきれないまま、大人になった元子供たちもたくさんいるのでしょう。
親も誰かの子供だから、仕方ないんですけれどね。

しかし、どうやって、私は「信じるな」を「信じよう」に変えたのでしょうね? 相当強力な呪縛のはずですが。
うーん、ちょっと思い出せないのですが、ゆっくり記憶を辿っていこうと思います。

 

 

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