家族会というもの。

きょう、初めて参加してみました。
母のつきそいとして。

よそさまのプライバシーに関係してくるので、細かい話は避けますが、
母の言葉を引用させてください。

「みんな、大変な思いをしているんだね」

うちは、まだまだ。
それだって、簡単には片付かない問題ですが。
でも、母が自分だけじゃないと感じてくれただけでも、大収穫です。

参加された方々は、みなさん、素晴らしい愛情の持ち主で。
ネットでかき集めた情報からはわからないもの。
リアルで体験して、乗り越えるためにたくさんの犠牲を払って、
その上でやっと出てくる言葉。
そんな貴重なものをたくさんいただいてきました。

私も正しい理解者になりたいと願います。

知識は力。

おはようございます。

昨日、ホメられました。
「お姉さん、勉強していますね!」

相手は、地域の精神保健福祉センターの電話相談の係の方です。
いやー、ホメられると、嬉しいものですねー。
なぜ、そんなところに電話をかけたかといえば、弟のアルコール依存症が
あるからです。

本人が「自分でコントロールする」って言うから、「じゃあ、君につきあうよ」で
夏に100日禁酒をスタートさせまして。
もう間もなく、こっちは満期明けだっていうのに、弟は悪化の一途をたどっています。
ここ数か月で、精神病院の代理診察、メンタルクリニックでの相談つきそい、
アラノンのミーティング(開催変更で空振りましたが)と、いろいろ頑張ってみたわけですが。

アルコール依存症は、まず、本人が「生きたい」、「治りたい」という『底つき』という状態になるのが
回復の第一歩と言われています。
もう飲めない、このままじゃダメだと思わせるまで飲ませる……。

非情なようですが、早くドン底まで行かせるのが問題解決の早道らしいです。

だからもう、医療機関、冷たいですよ(笑)。
基本は、「本人が治す気にならないとダメ」。

弟は母と同居しているのですが、完全にそこが共依存になっていて、これを突き崩すのも
大変でした。まだ、ダメだけど。それでも、やっと、母の意識が変わってきました。
アルコールで息子はダメになっていく、医療機関は冷たい、娘には叱られる、と
大変かわいそうな未亡人なのですが、まあ、仕方ない。

突き放す、アルコール問題に関してはノータッチで行く、共依存のダンスを踊らない、
「言っても言ってもダメ」という状況でもがいて、イージーな解決法を求めて、
やっと少し変わってきたかなーってところです。

アルコールの家族会、ホラ、アメリカ映画でたまに出てくるアレですよ。
アレ、相当抵抗があるみたいですね。
でも、家族の意識が変わらないと、依存症患者は悪化するだけです。
その手掛かりをくれる場所なのだと思います(空振っているから、まだわかんないけど)。

正しい知識は、人を救います。
だって、その知識、先人たちが苦しみの中で積み上げてきてくれたものですから。

弟はね、わかんない。
立ち直れるかどうかの勝算は、五分五分だと思います。
立ち直るって決めるまでも長いけれど、そこから人生を再起動させるのは、
とてつもない覚悟とエネルギーと忍耐がいります。
アルコールから派生する問題で、死んだ方がラクかもしれない。
でも、それでも、生きようと思ったときに、やっと道は開けるのだと思います。
どっちに転ぶかわからないです。

でも、この一連の流れの中で、いろいろな気づきがありました。
まず、現代の主流は、アルコールではなく、ドラッグなんですね。
以前はアルコール依存を扱っていたところが、ドラッグ専門になっています。
簡単に言えば、「アルコール? それどころじゃねえよ」ってことなんでしょう。
それくらいドラッグ依存の問題は、深刻なはずです。

依存症の陰には、依存症者を支えるイネーブラーと呼ばれる支援者がいます。
うちの場合は、母親ですね。よかれと思ってしたことが裏目に出てしまう。
世間体を考えて、日常を壊さずになんとかしようとして、どんどん深みにハマッてしまう。

「どうしたらいいのかわからない」
ならば、正しい知識を持ちましょうよ!
動けばいい。知識を持っている人に助けを求めに行けばいい。

私が書くのは、これは非常にありふれた問題だと感じるからです。
どこにでもあり、誰にでも降りかかる問題だと思うのです。
中年の引きこもり、依存症、共依存、そんなに珍しいことではありません。

今ね、アルコール依存症についての通信教育もあるんですよ!
すごーい! 見つけて、びっくりしました。
昨日、申込みました。また、手元に来たら、報告しますね!

最近の私

一日を二分割してやっております。

つまり、仮眠を挟んでいるということ。

だいたい、家の用事が終わる19時くらいから23時くらいまで寝て、
夜中作業して、また、寝ます。
仕事が立て込むと、あっさり夜型に変わるのです。

これがさらに進んで行くと、書き続けて、限界が来ると寝るスタイルに
替わっていくのですが、その前段階でしょうか?
最終形態になると、昼夜の区別はなくなります。
自律神経が乱れるわけです。ハイ。

昔、なにも知らない友人から「なんでそんな恰好なの?
それじゃ漫画家みたい!」ってよくわからない非難をされましたが、
集中しないと終わらないという意味では、近いかもしれませんね。
そのときも、締切明けのボロボロな状態だったように記憶しています。

同じ子には、「ファンデーションを塗らないなんて信じられない」も言われました。
え? そう?と思って、その子の前では、気を付けるようにはしたのですが。
それから20年が経過して、未だ近所はノーメイクな自分がいますよ。
人間、そうそう変わらないです。

モデルや芸能人、あるいは、お堅い仕事についている方には、
メイクも身だしなみも必須だと思いますが、それほどガチガチ縛らなくても
いいんじゃないかなーって思うんですよね。
だって、変身の楽しみが残るじゃないですか。
ボロボロから、ピカピカに。

そりゃ、一生ピカピカがいいけれど、それ、頑張ってやるほどのことじゃないと思うんですよね。

今は、離れちゃったけれど、あの子、どんな「しなければならない」に縛られているかなって
たまに思い出します。

ただ、「大人の女はキレイでいなさい」というある本のタイトルは、教訓のようにしております。
もはや、自分がラクだからじゃ世間の迷惑って年齢ですからね。あはは。
それでも、ヨーカドーにはノーメイクですけれどね。まあ、一生変わらない気がします。ハイ。

そろそろ、フラフラとヨーカドーにも行かれる段階ではなくなってきました。
まじめに集中して、頑張りまーす! 世の中のお籠り仕事のみなさま、ガンバリマショー!

「感じるな」

アマゾンさんは仕事が早いので、昨日、届いていました。
私は親のようにはならない

これ、初版は相当読みにくかったみたいですね。
想像するに、まだ専門用語が日本で定着してなかったんじゃないでしょうか?
うちに来たのは、改訂版なので、すらすら読めそうです。

さて、過日の「信じるな、しゃべるな、感じるな」ですが、自分に当てはまるのは、
「信じるな」だけだったと思っていたら、大きな間違いでした。
「感じるな」、これ、地味に呪縛にかかっていますねー。

そんなこと、たいしたことじゃないの。もう慣れっこよ。
私は平気、それより、あなたが心配。
大丈夫、傷ついてなんかいない。

この手の発言、非常にすらっと出てきます。
へたしたら、呼吸をするよりも楽かも。

いつから大人を信じられるようになったか、ひとつだけ思い出しました。
かつて社会部にいた新聞社の人が、「いろいろ見てきて、いろいろなケースがあると知っているけれど、
お前、かわいそうだな」と言ってくれたのです。

言葉だけでは伝わらないかもしれません。
そのときの空気、光、言い方、そこまでのプロセス、まあ、いろいろあって。
そっか、自分のこと、かわいそうって思っていいんだあって、素朴に思えて。

記憶がふっと蘇ってきた感じですが、うん、あれはひとつ、救われた瞬間だったかもしれません。
20代後半でした。具体的な年齢は忘れちゃったけれど。

まあね、だからといって、自己憐憫に浸るほど、ヤワじゃないつーか。
んなことで、止まるなら、動けっていうか。

まだ、社会は未完全だけど、ここ数十年でだいぶ、進んだ気がします。
もう少ししたら、もっとよくなるかもしれません。
人のベースは、生まれ育った環境にあって、そこは選べないからどうにもならないわけだけど、
どんなにサイバイバルな出発点でも、生き延びて、今があるなら、あとはこっちのものじゃないかと
思うんですよね。過去に支配されない。だって、今を生きているんですもの。

過去世なんかも、私の中では似た扱いです。
過去世、前世はあると考えたほうが、つじつまが合います。
だから、「ある」派なのですが。
でも、それは、あくまでも、「過去」なんですよね。

どんな因縁があったとしても、振り切る、切り捨てるという選択肢もあるわけですよ。
だって、今を生きているんですもん。

まあ、でも、代々続いた家系、伝統を守るとか、そういうルールの下に生まれちゃったら、
振り切るのは難しいですよね。役目があるかもしれないし。

その辺も含めて、自分で考えて、選ぶことが大事じゃないのかなあ?とぼんやり思います。

『私は親のようにはならない』の中にある壊れた家族のルールには、「考えるな」もあるようです。
さしずめ、私はルール違反の子供ですね。「考えて、しゃべり」ますから。

「しゃべるな」
「信じるな」
「感じるな」
「考えるな」
「疑問をもつな」
「要求するな」
「遊んではいけない」
「間違えてはいけない」

気になるものは、さっさと取り寄せる。
気になることは、本質を見極める。
そして、ケリをつけて、次へ進む。

あとまわしになんかしない。

これ、運動星座の特徴のような気がします。
運動星座は、牡羊座、蟹座、天秤座、山羊座です。

不動星座の人は、ホントに呆れるくらい動きません。
「まあ、様子を見て」「うん、ぼちぼち」「わかっている。そのうちにやる」
牡牛座、獅子座、蠍座、水瓶座。

きっと、生きている時間感覚が違うんでしょうね。あと、不動星座の人は、感情の処理の仕方がうまいのかも。
やらないと、喉にひっかかった骨みたいで、落ち着かないですもん。
私の時間感覚は、たぶん、相当早いと思います。待つのはいいんだけど、自分が止めるのは我慢が出来ないわけ。
先に投げて、人にも動いてもらおうとしますね。そこで、時間がかかるのは別にかまわなくて。
でも、自分で流れが止まるのはイヤなんですよねえ。
とりあえず、失敗してもいいし、やり直しになってもいいから動くタチですね。
これは生まれつきの性分というよりも、後天的な学びのような気がしますよ。

こういう生き急ぎタイプもいれば、完成度で勝負したい人もいるし、失敗を恐れて動けない人もいます。
社会はいろいろで、だから、面白いわけですが。

12星座はエレメンツでくくられ、語られることが多いのですが、案外、クオリティで考えると腑に落ちる部分もあります。
エレメンツは、火地風水。クオリティは、運動、不動、柔軟。まあ、聞いたことがあるような、ないような?の世界でしょう。

うらないは、ひとつの手掛かりになるので、面白いですよ。
あれ、何の話だっけ? そうそう、「感じるな」でした。

封じられた思いは、どこに行くのでしょうね? ぼんやり答えのないことを考えながら、きょうは、おしまい。

真偽の境目。

目下、経験や知識が不足している分野で、必死にあがいております。

ところが、きょう、私が一生懸命に埋めようとしている部分について、
「大丈夫、任せて。三週間でなんとかなる」と言い出す人物が現れました。

これは、どうしたらいいのでしょうね?

個人的には、クロです。非情に、うさんくさい。
これまで必死で調べた一般的なセオリーからかけ離れています。
イメージは、イージーな新興宗教。
救いを求める人が欲しい言葉を与え、踏まなくてはいけないステップをすっ飛ばし、
「大丈夫、黙ってついてくれば、幸せになれるよ」と請け負っているのがそっくりです。
まあ、ぶっちゃけ、クリニックなんですけれどね。

乾ききった心を持っている人に、とっておきの甘露を与えたのです。

ねー、それ、毒かもしれないぜ?

しかし、簡単に「希望」になっちゃいました。
「治るって!」
いや、治らないよ。根気強く、付き合うしかない病気だよ?

おいおい、大丈夫か?

一般的なセオリーによる回復の道は、つらく厳しいのです。
気が重くなるようなプロセスを踏んでも、望みがかなうかどうか誰にもわかりません。
私が調べて、「こういうのもあるみたい」と伝えたことは、だれもが気乗りしないことなのです。
地道で、効果が出るかどうかわからない作業。
いつ切れるかわからないクモの糸。

……地道なルートを嫌う気持ちは、わかるんですけれどね。

希望に輝く人の顔を眺めて、こんなに不安を覚えたことは過去にありません。
ただ、最初にお話しした通り、専門外のジャンルなのです。医療の分野ですから。
今は、「この辺がだいたい、そうだよね?」とアタリをつけている段階で、まだ、私の中に判断基準がありません。

とりあえず、「それ、一般的なセオリーとはかけ離れているからね」とだけ、くぎを刺しておきました。
一緒に喜べればいいんですけれどね。
こういう予感が杞憂に終わればいいのですが。

半日つきあい、すっかり疲れ果てて、クリームいっぱいのシュークリームをムシャムシャ食べて、眠りました。
2、3時間で復活して、今度は小松菜ジュースを飲みました。
うん、野菜の方が心身の回復に役立つみたいです。

こういうのも、ひとつずつ、体験していくしかないのでしょう。
もしかしたら、百戦錬磨の先生のテクニックかもしれませんしね。
患者をソノ気にさせて、回復力を高める……みたいな。

まあ、楽観せずに、私は勉強を続けていきましょう。

きょうの日記、ちょっと山羊座っぽいですね。ふふふ。

 

 

 

 

「信じるな」

きょうは、不覚にも涙がこぼれました。

世良守行さんの『通院でケアする! アルコール依存症の早期発見とケアの仕方』という本を読んでいたのですが、突然、心に刺さる言葉が出てきたのです。ちょっと引用しますね。

“クラウディア・ブラックの著書『私は親のようにはならない』(斎藤 学訳/誠信書房)の中で、「信じるな」「しゃべるな」「感じるな」がアルコール依存症の過程の子どもたちのルールであると述べています。
子どもは(酒を)飲んでいない親からも、飲んでいる親からも「信じるな」のメッセージを受け取り、いつの間にか親の言葉を「信じてはいけない」というルールを心の中に作るのです。親はあてにならない。何も期待できない。大人のいうことは信じないほうが傷つかない、などと考えるようになっていくのです。”

うわー、ホント、このまんまの幼少期でした!

“例えば、母親は父親のことを「だらしのないお父さん」といって愚痴ばかりこぼす日もあり、「飲まなければお父さんはいい人」といったり、「離婚をしたい」、「お父さんのことは心配しなくていい」などと、口を開くたびに言うことが違う。次の場面では、「あなたがしっかりしないからお父さんがお酒を飲む」と子ども自身の問題にされています。このような一貫性の乏しい、相反する言動が交わる中で子どもは育つのです。”

これは、いかにもありそうです。あちこちに転がっていそうなお話です。
うちもそうだったし、きっと、「うちも」「うちも」なんじゃないでしょうか?

ちょっと、「信じるな」に話を戻しましょう。

そう、私は、大人を信じられない子供でした。
大人、もっと言えば、人間を?

17のとき、バイト先の店長に言われました。
「お前、この人をボスにするって決めたら、その人にはちゃんと従えよ」
つまり、全然従ってなかったのでしょう(笑)。逆らったつもりはないのですが、ね。
この段階では、大人を信じていませんね。

そこから、記憶が少し飛びまして。
気づいたら、人を信じる人間になっていました! あれ? どこで、どうなったのでしょう?

きょう、わかったのは、「信じるな」は、明確なメッセージとして受け取ったのですが、どうも「しゃべるな」「感じるな」は、ヤダったみたいですね。
我が家は壊れている、親はおかしい。私はつらい、怒っている的なことは、わりとストレートに出してきました。
そこかなー? 機能不全の家庭に飲みこまれなかった勝因は。

ただ、飲み込まれなかったけれど、きょうは、涙が出ましたよ。
胸が詰まります。

きっと、人に見せないように、あちこちで似た痛みを隠し持っている子供たちがたくさんいるのでしょう。
そして、過去に受けたダメージを癒しきれないまま、大人になった元子供たちもたくさんいるのでしょう。
親も誰かの子供だから、仕方ないんですけれどね。

しかし、どうやって、私は「信じるな」を「信じよう」に変えたのでしょうね? 相当強力な呪縛のはずですが。
うーん、ちょっと思い出せないのですが、ゆっくり記憶を辿っていこうと思います。

 

 

ウフィツイ美術館展

1階にある絵の大半が、目がうつろ。テンペラの特性のせいでしょうか。いえ、あえて、わざと、かもしれません。
注意深く見てみると、神聖なもの、人間離れした存在のものの瞳には、生気が宿っています。
15、16世紀のフィレンツェは、意外に生きにくい時代だったのかもしれないと感じました。
ボッティチェリ《聖母子と天使》の天使の人を試すような小賢しい表情が、妙に記憶に残ります。

2階の印象は、緋色。絵を展示する壁が赤く塗り分けられていたせいもあるし、やたら緋色が目につくせいでもあります。

足にも目が向きます。
親指の反りが強い。人差し指が発達し、小指に向けてどんどん粗末になっていきます。
この時代の人の足、野性味あふれる足、生命力のある足。

聖母マリアを象徴する青い布。腰より下に巻かれている印象が強く、遠目で見ると、
人魚に大勢の人が集まっているようにも見えます。
実際はまったく違うんですが。きょうの私の目には、人魚のように見えます。

≪春(プリマーヴェーラ)≫のタピストリーには、3月25日の占星術の意匠が隠されているそうですが、
わかりやすい牡羊くらいしか読み取れませんでした。でも、羊の後ろにいるのは、どうみても牛だしなあ。
一生懸命見れば見るほど、ドツボにはまっていくわけです。
レモン? レモンは、強いていうなら、双子座だよね。ユリは、聖母系のシンボルだし。あとは、あれはアネモネかなあ?みたいな。
シンボルってことは、頭の飾りかなー? でも、どこまでが髪の毛で、どこからが飾りかよくわかんない……みたいな。
まったく、頼りないったら!
ただ、ジロジロ見ていたので、枠に当たる部分のサティロスっぽいやつは、左右で表情が違うことに気づきました。
あれは、わざとなんですよね。きっと。右側は好色そうに見えますが、左は無関心に見えます。
うーん、まだ、隠れていたかなー? まあ、混んでいる中、結構頑張って見たつもりです。
よくわからなかったけれど、まあ、いいや。

一角獣のときもそうでしたが、タピストリーとは、どうも相性が悪いみたいです。ハイ。
どこまでが意匠で、どこからが退色なのか、よくわからないんだもーん。

メディチ家の没落以降の変化が、ちょっとわかりにくかったです。
作品が年代順に並んでないため、せっかく歴史をパネルで教えてもらっても、頭の中で画風の変化がつかみきれません。

ボッティチェリ《パラスとケンタウロス》は、美しかったです。
しかし、コレが結婚のお祝いかーと考えますと、うーん、よくわからんと思いました。
聡く、賢くあれ……みたいな?

まあ、ともあれ、マニエラ・モデルナ(新時代様式)までいきますと、だんだん、感覚が私たちに近づいてくれるというか。
構成もひねったものになってきて、私はこれくらいごちゃっとした感じのほうが好きだなあと思ったりしました。

きっとね、フィレンツェで出会ったら、違う印象になると思います。もっと大きいうねりの中で、感じたい絵画たちでした。
遠い日本まで来てくれて、ありがとう。

 

赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで

千葉に所用が出来まして、のそのそと出かけたのですが、見事に空振りました。が、転んでもタダでは起きない私は、新しいお友達をひとり作り、モノのついでにのぞいてきました。

千葉市立美術館。

 

赤瀬川さんの本は、かろうじて一冊だけ持っていました。

『ベルリン正体不明』

なぜ、それ?

名前を知っている程度で、あまり影響は受けていないんですが、いやはや、多才でタフで繊細で、とどのつまり、変な人だったことがよくわかります。身近にいたら、めちゃくちゃ楽しいか、大嫌いか、ふたつにひとつかと。

企画展は、とにかく濃くて、くらくらします。序盤から60年代、私が生まれる前にぐいっと引き戻されます。

いろいろありすぎて、いろいろ見た感想がそれかい?と言われそうですが、マッチ箱のコレクションが楽しく、羨ましく、かなり初期の「晩餐整理券」に声を出して笑ってしまいました。

整理券を手にした人は、人が晩餐をしている姿をただ眺めるだけなんですって。最高!

いや、呼ばないでください。他人事だから、笑っちゃうだけで、実際にやられたら……やはり、笑っちゃうかな?

お好きな方には、たまらない、そうでもない方でも、必ず、なにかを持ち帰れる企画展です。

企画展の会期直前に亡くなるのも、なんだか大かがりな仕掛けの一部のような気がしてしまいます。溢れるイマジネーションで、きっとあちらの世界でも、大暴れしている感じがしちゃいます。

そんな企画展です。

 

2014年11月8日 | カテゴリー : 日々のこと | 投稿者 : 章月綾乃

空に鳥が現れるまで。

久しぶりに、海まで歩きました。
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謎な棒。

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ん?

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雲がモコモコしてきて、鳥が現れました!

 

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わかるかしら?

右側にくちばしがあるように見えるのですが。

雲の鳥さん、すぐに消えちゃいました。

2014年11月7日 | カテゴリー : 日々のこと | 投稿者 : 章月綾乃

止まる。

急ぎ仕事が山のようにあって、相当危なっかしい状態なのですが、
気分は上々、非常にいい感じです。
今朝は思うような時間に起きられませんでしたが、洗濯物をどんどんたたみ、
ずっと散らかっていた服も片付けました。
なぜ散らかっているのかよくわからなかったのですが、やっと理解しました。
夏服が居場所をなくしていたのでした。なるほどね。

少し、こもって集中的に仕事をします。
ハタから見たら、「止まっている」状況だと思うのですが、
止まる、溜める、蓄える的なことがしたくて仕方がありません。

指先からは、レモンと小松菜の匂い。
本日二回目のお洗濯はまもなく終わります。
きょうは、オーブンレンジでさつまいもを焼きまして、
それをご飯代わりにしようかと。
なかなか断糖には至りません。
あ、小松菜ジュースは公言通り飲みました。いちいち発表しないと続かない意志の弱いやつです。私は。

そうそう、私の小松菜ジュースは、世にも美しいダイエットをやっていたころの
名残なのですが、結構、後遺症を引きずっている人は世の中にたくさんいらっしゃるのですね。
(小松菜ジュースを飲んだり、紅花油を使い続けているあたり、後遺症デス)。
で、後遺症仲間さんたちのブログを拝読して、「ハッ」としたのですが、
常識と反するほど油を取る、塩分もOK以外は、断糖ダイエットだったのだなあと
いまさら気づきました。

あー、でもなあ、西脇先生の断糖のススメは、小麦粉もNGですから。
パスタは少量ならいいよの世にも~より、より厳密になるというわけですよね。

ふむ。

世にも美しいダイエットは、非常に私の体には合っていて、書籍通りにやって、
10キロくらい落せたのですが、いかんせん、制限が多すぎるため、
社交に支障をきたすのでした。
また、一度崩れると、、そこからの反動がすごくて。
何を食べるかは、どう生きるかにつながる問題ですね。

ただ、当時と比べると、人とのつきあい方が変わってきたように
感じるので、20代のころほど難しくないかもしれません。
なんだろう、みんな、こだわりやスタイルがあるから、それを尊重しあいましょうみたいに
変わってきた気がしますね。

「ずっと」は、いまひとつ現実的ではないのですが、
60日間チャレンジの間に、断糖3日間はやりたいなあと思います。
葛クリーニングのときは、なんとか3日完走しましたが、葛を見るのもイヤみたいな
領域にいっちゃいまして。葛には悪いことをしました。
何事もやり過ぎはいけません。

本日のまとめは、「食生活を見直しましょう」でしょうか。あはは。